転勤/動乱のエピソード編その10




~見送りの鬼は何故逃亡したのか!~


転勤はたくさんした。入社以来では青森―東京―長野―東京―神戸―東京―新潟―大阪―東京―大阪―福岡―東京の12か所である。人事異動としては最後の東京で4回替わっているので都合16回である。39年に16回なら、平均2.44年だ。

最長は4年8か月、最短は1年4か月である。随分替わっているように思うかも知れないが、私は東京と地方を行ったり来たりしておりまだ恵まれている方だと思うし、回数も取り立てて多い訳ではない。そういう業界なのである。
転勤の多い業界は様々あるが、営業網が全国的で多岐にわたっている点では保険業界は横綱であろう。あまり深く考えずに就職してしまったので、自分でもまさかこのような人生となることは想像もしていなかった。

新入社員の時、研修のガイダンスで全員基本的には自宅から通える所に配属、と言われた。
私の実家は福島県福島市である。親にもそのように話して喜んでもらっていたが、発令されたら青森市だった。研修終わりのパーティーで人事の人に何故自分は福島ではないのか、と訊いてみたら、同じ東北なんだから近くて良いじゃないかと言われ、この人はバカなんじゃなかろうか、と思った。当時は特急しか無かったので、東京-福島間は3時間、福島-青森間は5時間半もかかっていたのである(=_=)

損保は様々な地区に拠点があるため距離的に激しい人事異動も多い。以前先輩が4月に北海道から沖縄に転勤し、コートに長靴で赴任したらみんな半袖で驚愕したと言っていたが、そんな話はゴロゴロあるのだ。

転勤する時の見送り、というのも一大イベントであった。本店に勤務していた30代の頃はオフィスが日本橋にあったこともあり、転勤者の東京駅からの出発は同じ部の社員がホームで見送る、というのが結構恒例だった。
見送りに執念を燃やすA部長という人がいた。A部長は転勤者に赴任の予定をつぶさに確認し、必ず東京駅のホームにてバンザイ三唱で見送るのだった。手の空いている人は付いて行かなくてはならず、だいたい10人以上が新幹線のホーム等に集結し恥ずかしい思いをしながらバンザイをしていた。見送る方はまだ良いのだが、見送られる方は滅茶苦茶恥ずかしい。人目も憚らず大きな声で、「それではぁ、〇〇君の前途を祝してぇぇぇ、バンザーイ!バンザーイ!バンザーイ!」とやるのだから、周囲からはじろじろ見られるし、早く新幹線出てくれーと、祈るような気持ちになるものである(*_*;

そのA部長が大阪に転勤になった。ところが、A部長は赴任の予定を開示しないのである。その頃私は課長の手前の副長という役職で、後輩達からA部長の赴任予定を代表して確認するよう促され、仕方なく訊きに行った。すると、新幹線じゃないから、とか、未だ決まってないから、とかいかにもテキトーな感じではぐらかし、頑として新幹線の出発時間を言わないのであった(-_-)
みんなは「見送りの鬼」と言われたA部長を派手に送り出し、目一杯恥ずかしい思いをさせるべく決意を固めていたので、何か手立てはないものかと悩んだ。我々有志は、ともかく赴任日当日の夕方待機し、ホームの見送りが叶わぬまでもフロアーでの胴上げだとか、せめてもの一太刀を浴びせようと虎視眈眈と機会を狙っていたのである。

するとA部長は夕方5時頃にふわーと立ち上がると、じゃどうも、と呟くように言ったかと思うやいなや、小走りに出て行こうとするのである。これには驚いた。意表を突かれた。いくらなんでもフロアで全員集めての挨拶くらいはするものとばかり思っていたのだ。後を追おうと私を含めた何人かが立ち上がった。気配を察したA部長は更に歩を早め、廊下に出ると何と全速力で駆け出し、階段を転がるように降りて行ったのである。我々は呆然と見送るしかなかった。しかし、そんなに見送られるのがイヤなのか。そんなに自分がイヤなら何故人にするのか・・・(*_*;

とは言うものの、私の会社だけではなく当時3月末の新幹線のホームではバンザイ三唱はよく見られた光景だった。今はあまりないのかな(^^;)

当時はのんびりした時代で今とは違うと仰る方がいらっしゃるかも知れない。だが私は、当時の仕事の状況が今よりも楽だとも思わない。ただ、高度成長期のムードや過去の伝統が色濃く残っている時代だったのだろう。バブル後に失ったものの中に、このような日本的なイベントが他にもたくさんあるのかしらね。良い悪いではなく、単純に寂しい気持ちもするな。